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ゴルゴタの丘があったとされる場所にあるイエス・キリストの墓 |
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10月26日 午後13時 イスラエル・テルアビブ(Ben Gurion Airport)空港へ到着。 |
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到着階から見えるBen Gurion Airport T3 出発階 |
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テルアビブ空港は激しい政情の国とは思えない程近代的で綺麗な印象。
しかしこの通路を抜た先に、評判の厳しい入国審査場(Immigration)だ。 |
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到着階通路先の入国審査場へ |
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世界一厳しいと噂の入国審査場はすごい行列。やはり評判通り厳しいのだろう。 |
外務省イスラエル
出入国安全情報 |
イスラエルでは入国に際して,旅券にイスラエルを対立国としているアラブ諸国の査証,入国スタンプがあると,セキュリティー・チェックが更に厳しくなる場合があります。
空港からの入国の場合は,原則として旅券に出入国スタンプは押されなくなりました。その代わり,入国カードが発行されますので,滞在中はこのカードを必ず携行してください。仮に旅券にイスラエルの査証,出入国スタンプが押されている場合,イスラエルと国交がないアラブ,イスラム諸国では入国を拒否されます。 |
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イミグレーション(入国審査場)
イスラエル入国カード |
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30分ほど待ってやっと順番が来る。しかしあっけないほど、質問もほとんどなくパスポートからスキャンした入国スタンプ代わりのブルーのカードを渡され完了。
このカードは出国の時必要になるので大切に保管する必要がある。 |
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到着ロビー |
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到着ロビーのATMで400ILS(シェケル)12600円ほどをキャッシング。 |
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シャトルバスに乗る。ホテルのメモ見せ乗車。乗客を希望の場所に途中降ろしながら10人中最後になってやっとホテル近くに到着1時間半もかかってすっかり車酔いしてしまう。 ドライバーに料金67x2=134ILS(4200円)支払う。 |
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エルサレム:AzzahraHotel |
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エルサレム:AzzahraHotel チェックイン。 2泊朝食込み32000円。
部屋は2階の3号室。4ベッドのファミリールームでバスタブもあって最高。 |
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一休みして早速エルサレム街歩きに出発。 |
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エルサレム聖地歩きルート⇒ |
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新門 |
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ダマスカス門から城内へ迷路のような石畳の道を足のおもむくまま気の向くままにあっちへこっちへ迷いながら歩く。 |
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ダマスカス門 |
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ダビデの塔 |
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イエスが十字架を背負って歩いたヴィア・ドロローサの出発点とされている、ピラト総督官邸は、歴史家、考古学者の多くがアントニオ要塞ではなく、ここダビデの塔が建てられているヤッフォ門の傍らにあったと推定している。イエスの時代にイエスの墓地があった場所もダマスコ門の北側であるため、イエスの墓もその墓地にあったと考えられている。
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世界遺産「エルサレム旧市街とその城壁群」 |
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スーク......スークはアラビア語で「マーケット」 |
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城壁内から入ってきたダマスカス門を見つけて20分ほど歩いてホテルに戻る。 |
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オリーブの実がいっぱい乗ったビザ |
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ホテルレストランに19:00予約していた。ホテル名物のピザを注文。Lサイズを頼むとこの大きさにびっくり。 |
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エルサレム/2日目 |
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エルサレム/2日目
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キリストが十字架に架かけられたゴルタゴの丘があったとされる「聖墳墓教会」は事前調査では相当な混雑だそうなので 5時頃 目が覚めすぐ早起き支度して見学に出かける。
6時頃の旧市街は昨日のあのものすごい雑踏がなく、静かすぎて不気味なくらい。 |
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聖墳墓教会 |
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6時過ぎ教会入口に着く。こんな朝早くから沢山の参拝信者。 |
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「塗油の石」 |
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厳粛な気持ちで聖墳墓協会入口を入るとすぐにあるのが、「スターバト・マーテル」祭壇で十字架から降ろされるイエスの遺体を両手で受け止めた母マリアにささげられている。そしてその下の床に「塗油の石」イエスの遺体が十字架から下された後に、この石の上に横たえられ香油がぬられた場所。 |
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階段を上がるとゴルダゴの丘で十字架が建てられた場所。 |
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第11留 十字架が立てられた場所 |
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キリストの墓 |
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キリストの墓前でしばらくたたずんでから感慨を心にしまって、滞在中またくるであろう教会を後にする。 |
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キリストの時代から続いているような市場/スーク |
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ホテルに戻って朝食。休憩して街歩きに出る。 |
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エルサレムの街の風景にそぐわな新型トラム |
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ユダヤ教の聖地「嘆きの壁」に向かう。入口で手荷物のX線検査と金属探知機による検査を受けて場内へ |
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嘆きの壁に向かう。入口で手荷物のX線検査と金属探知機による検査を受けて場内へ。 |
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キッパ着用の
トランプ大統領 |
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嘆きの壁 別名「西の壁(Western Wall)」左が男性、右が女性に祈る場所が分けらている。
嘆きの壁では異教徒にもキッパという小さな帽子の着用が義務付けられている。壁近くで貸出しているが信者でもないのにはばかれて遠くから見学するだけにする。 |
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嘆きの壁/左が男性.右が女性分けられた祈る場所 |
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嘆きの壁ではたくさんのイスラエル兵が警備している。その先にへ「岩のドーム」がそびえている。 |
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嘆きの壁 先上に「岩のドーム」
岩のドーム(いわのドーム、アラビア語クッバ・アッサフラは、東エルサレムにある、カアバ、預言者のモスクに次ぐイスラム教の第3の聖地であり、「神殿の丘」と呼ばれる聖域となっている。現在はイスラム教徒の管理下にあるが、南西の壁の外側の一部だけが「嘆きの壁」としてユダヤ教徒の管理下にある。7世紀末に完成した集中式平面をもつ神殿である。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教にとって重要な関わりを持つ聖なる岩を祀っている。それゆえ、このドームはその神聖な岩を覆った記念堂であり、礼拝所としてのモスクではない。刻まれた240mに及ぶ碑文では、イエスの神性を否定はするものの、預言者であることを認めている。
By-Expedia |
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「岩のドーム」
イスラム教の先達ともいうべきユダヤ教、キリスト教の一神教をはぐくんだ聖地エルサレムは、イスラム教勃興以後、イスラム勢力が政権を握り、多くのイスラム教徒が他の一神教と共存するようになった。しかし、これら三つの一神教によるエルサレムを巡る紛争に象徴されるように、この土地は宗教間の対立が絶えなかった。
岩のドームはかつてのエルサレム神殿内にあり、建設はウマイヤ朝第5代カリフであるアブドゥルマリクが685年から688年の間のいつの時点かに建設を思い立ったことに始まり、688年に着工した。当時、イスラム最高の聖地メッカはアリー・イブン=アビー=ターリブ(第4代正統カリフ・アリー)を支持するイブン・アッ・ズバイルによって制圧されており、それが岩のドーム建設の直接の動機であったと推察される。
建物は、預言者ムハンマドが夜の旅(イスラー)に旅立ち、また、アブラハムが息子イサクを犠牲に捧げようとした場所と信じられている「聖なる岩」を取り囲むように建設され、692年に完成した。外部は大理石と美しい瑠璃色のトルコ製タイルによって装飾されているが、これは1554年にオスマン帝国のスレイマン1世の命によって建築家ミマール・スィナンが貼り直したもので、かつては樹木や草花、建物を画いたガラス・モザイクであった。ドーム部分は内部装飾も含めて11世紀に再建されたものだが、これはほぼ創建当時のままのデザインである。
By-Expedia |
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今日も一日エルサレムを歩き尽くしてホテルで名物のピザで夕食。今夜はマルゲリータ。 |
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ヴィア・ドロローサ Via Dolorosa「苦難の道」
イエス・キリストが十字架を背負って歩いた道 |
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ヴィア・ドロローサ Via Dolorosa「苦難の道」 By-Expedia |
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イスラエル
エルサレム |
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10月28日 |
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エルサレム |
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オリーブ山 |
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ライオン門 |
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ヴィア・ドロローサ |
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Hotel
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2019年10月28日エルサレム最後の日、オリーブ山に登ってその後イエス・キリストが十字架を背負って歩いた「ヴィア・ドロローサ」を歩く |
Via Dolorosa「苦難の道」は、新約聖書の四つの福音書の記述やキリスト教の伝承などから想定されるイエス・キリストの最後の歩みのこと。いずれの福音書でも、イエスは総督ピラトの官邸から刑場のあるゴルゴダの丘までの道のりを十字架を背負って歩いたとされている。ヴィア・ドロローサという名称は、その道中に味わったイエスの苦難を偲んで名付けられている。
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イエスの処刑からおよそ二千年後の現在の地理上では、ヴィア・ドロローサの始発点はエルサレム旧市街北東のイスラム教地区にあるライオン門付近、終着点は旧市街北西のキリスト教地区の聖墳墓教会内にあるイエスの墓に相当する。始発点と終着点を含めた計十四箇所に留(りゅう)と呼ばれる中継点が設けられている |
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ヴィア・ドロローサ「苦難の道」 |
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第1留 -ピラト総督に裁かれる |
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第1留 は現在、男子校の敷地となっている場所にあり、16世紀以来ヴィア・ドロローサの始発点に定められている。この場所は神殿の丘の北側に位置し、第2神殿時代にはアントニオ要塞があった。キリスト教の伝承では、イエスはその要塞の中でピラトに裁かれたとされている。By-Expedia |
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第1留 -ピラト総督に裁かれる
『ヨハネによる福音書』 18:28~18:33
人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。そこで、ピラトが彼らのところへ出て来て、「どういう罪でこの男を訴えるのか」と言った。
彼らは答えて、「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と言った。 ピラトが、「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と言うと、ユダヤ人たちは、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と言った。それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった。
そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。By-Expedia |
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第2留 -有罪に定められ、鞭で打たれる |
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第2留 -有罪に定められ、鞭で打たれる
『ヨハネによる福音書』 19:1~19:17
そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。 兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、 そばにやって来ては、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打った。
ピラトはまた出て来て、言った。「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。」イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。
祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは言った。「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない。」
ユダヤ人たちは答えた。「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。」 ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ、
再び総督官邸の中に入って、「お前はどこから来たのか」とイエスに言った。しかし、イエスは答えようとされなかった。 そこで、ピラトは言った。「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」
イエスは答えられた。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせた。
それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。ピラトがユダヤ人たちに、「見よ、あなたたちの王だ」と言うと、 彼らは叫んだ。「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」ピラトが、「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言うと、祭司長たちは、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えた。
そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。こうして、彼らはイエスを引き取った。 イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。
By-Expedia |
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第2留 -有罪に定められ、鞭で打たれる
『マタイによる福音書』 27:15~27:26
ところで、祭りの度ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。その頃、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。ピラトは人々が集まってきた時に言った。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。一方、ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」しかし、祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを処刑に処してもらうようにと群衆を説得した。そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群集はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持ってこさせ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。
------この記述を根拠にユダヤ人は以降二千年近くの間、キリスト教社会において「メシア殺し」の誹りを受けることになるのである。また、上記一文は反ユダヤ主義の絶好の口実として用いられている。イエスの死についての責任がユダヤ人にはないことをカトリック教会が公式に宣言したのは、1962年から1965年にかけて開催された第2バチカン公会議でのことである。By-Expedia
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スーク(アラビア語でマーケット)を抜けて3留へ |
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第3留 -最初に倒れた場所-
ライオン門からはじまるヴィア・ドロローサはライオン門通りを西へと伸びてエッケ・ホモ・アーチを潜った後、エル・ワド通りと交わる角で南へと向きを変える(左折する)。エル・ワド通りは神殿の丘とシオン山に挟まれた谷底に相当し、フラウィウス・ヨセフスの文献では「チロペオン」と名付けられている。また、アエリア・カピトリーナの建造に際しては、都市計画のカルド(南北の軸=メインロード)に次ぐ二番目の大通りに位置づけられていた。By-Expedia |
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第4留 -悲しむ母マリアと出会う-
この場所でイエスは母マリアと遭遇した1881年に建てられた「苦悩の母マリア教会の前では、多くの信者がマリアの悲しみを慮って祈りを捧げている。 |
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第4留 -悲しむ母マリアと出会う- |
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第5留 -キレネ人シモンがイエス・キリストを助ける-
第4留を過ぎたところでヴィア・ドロローサは再び西へと向きを右に変える。ここからゴルゴダの丘へと向かうヴィア・ドロローサ通りの階段状の緩やかな上り坂を登るのだが、その交差点の傍らに、イエスに代わって十字架を担いだキレネ人シモンを記念する第5留がある。
「人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた」-『ルカによる福音書』
23:26 By-Expedia |
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第5留 -キレネ人シモンがイエスを助ける-
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第6留 -ベロニカがイエス・キリストの顔を拭く-
第6留のシンボルは壁に埋め込まれた石柱である。伝承によれば、この場所にベロニカの住居があったという。ベロニカはイエスの顔を拭うために布を持って家から出てきたのだが、このとき用いた布にイエスの顔が浮かび上がり、「ベロニカのベール」として後世に語り継がれることになった。また一説では、ベロニカは共観福音書に登場する出血性の病に冒されていた女性と同一人物であると見なされている。
「すると、そこへ十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。「この方の服に触りさえすれば治してもらえる」と思ったからである。-『マタイによる福音書』
9:20~9:21 」 By-Expedia |
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第6留 -ベロニカがイエスの顔を拭く-
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第7留イエスが手をついた |
第7/Ⅶ留 -二度目に倒れた場所-
第7留はヴィア・ドロローサ通りとハーン・アル=ザイト通りとの交差点にあり、スーク(市場)の只中に位置している。ここではイエスが二度目に倒れた場所、および「裁きの門」が記念されている。ハン・アル=ザイト通りはアエリア・カピトリーナの時代はカルドであった。現在、イエスの十字架と墓が置かれている聖墳墓教会、すなわちゴルゴダの丘はエルサレム旧市街の城壁内にあるのだが、イエスの時代には城壁の外にあった。フラフィウス・ヨセフスによれば、当時のエルサレムには第2城壁があり、紀元1世紀の四十年代にはアグリッパ1世によって第3城壁が建造されている(ゴルゴダの丘は第2城壁と第3城壁の間にある)。キリスト教の伝承では、イエスの時代、第7留の場所(第2城壁の西側壁中央)には「裁きの門」と呼ばれるゴルゴダの丘へとつながる門があり、この上で死刑囚に対する罪状が読み上げられていた。もちろん、イエスの場合も同様に行われたという By-Expedia |
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第7留 -二度目に倒れた場所- |
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第8留 -イエス・キリストがエルサレムの婦人たちに語りかける-
ハーン・アル=ザイト通りを南進すると、すぐにアル=ハンカ通りとの交差点があるので右折する。すると南側に聖カラランボスの名が冠せられたギリシア正教の教会がある。この教会の壁に、第8留のシンボル、すなわちラテン十字とギリシア語で「勝利者イエス・キリスト」という言葉が刻まれた石がある。
「法廷の門」を背後にしていることから、イエスの時代、この場所はエルサレムの城壁外にあった。よって、イエスの苦難を見て嘆き悲しむ婦人たちとの間のエピソードは野道で行われたことになる。
「民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。人々が、『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことがない乳房は幸いだ』という日が来る」
-『ルカによる福音書』 23:27~23:29 By-Expedia |
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第8/Ⅷ留 -イエスがエルサレムの婦人たちに語りかける-
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第9/Ⅸ留 -三度目に倒れた場所-
スークを南進すると、西へ向かう上り階段の通路が右側に見える。その通路の奥にコプト正教会のエルサレム総主教座の置かれた聖アンソニー教会があるのだが、施設の外壁を支える柱のひとつが第9留のシンボルである。第9留は、この場所でイエスが三度目に倒れたとする伝承に基づいて設置されている。
イエスが三度目に倒れたとされる場所は当初、聖墳墓教会の中庭に定められていたのだが、そこにあった石には十字架が落下した際についたと伝えられる打痕が残されていた。しかし16世紀以降にその石の所在が不明になったため、聖アンソニー教会に留が移されることになった。
この場所から聖墳墓教会の屋根裏に入ることができる。そこはデイル・アル=スルタン(エチオピア正教の修道会)の区画になっており、この区画を通って聖墳墓教会の中庭に降り第10留に向かう。 By-Expedia |
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第9留 -三度目に倒れた場所-
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第10/Ⅹ留 -衣服を剥ぎ取られる-
第10留は聖墳墓教会に隣接しているものの、唯一建物の外部に独立した聖堂が置かれている。階段を上った聖堂からは、教会の二階にある第11留を見ることができる。この留は、イエスの衣服をくじで分け合ったとされるローマ兵の逸話に由来している。
-『マタイによる福音書』 27:35~27:36 「 彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、そこに座って見張りをしていた」
十字軍の時代はこの聖堂から階段を通って直にゴルゴダの丘(第11留)に登ることができたという。しかし1187年にイスラム教徒によって通路は寸断されて窓に改装されたそうである。聖堂ではイエスの母マリアと洗礼者ヨハネに祈りが捧げられている。
By-Expedia |
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1925年の第10留 |
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第10留 -衣服を剥ぎ取られる-
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第11/Ⅺ留 -十字架が立てられる-
第11留は聖墳墓教会内にあるゴルゴタの丘の(場内から向かって)右側に設置されており、フランシスコ会の管轄下にある。壁によって隔てられる以前は、第10留から第11留への移動には数段の段差を上るだけですんだのだが、現在のところは一旦地上に降り、教会に入場してから改めてゴルゴダの丘に上る必要がある。
純銀製の祭壇は1588年にメディチ家のフェルディナンド1世から寄進されたものである。礼拝堂の現在の装飾は1937年にアントニオ・バルルッチによって改修されている。天井の中央には、十字軍の時代に制作されたモザイク画がかろうじて残されており、そこにはイエスの肖像が描かれている。それ以外のモザイクは、天井をP・ダッチアルディ、壁面をL・トリフォグリオが担当しており、両者とも、十字架に釘で打ち付けられるイエス、十字架の下でたたずむ婦人たち、イサクの燔祭をモチーフに選んでいる。イサクの燔祭は、キリスト教では伝統的にイエスの十字架刑の予兆、暗示と見なされている。それは、アブラハムがひとり息子のイサクを生贄として捧げなければならなかったのと同じように、神もまた、人類の罪を購うためにひとり息子のイエスを捧げたという神学に基いている。十字架に掛けられるイエスは以下のように描写されている。
-『ルカによる福音書』 23:33~23:34
「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。 〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。 By-Expedia
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第11留 -十字架が立てられる-
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第11留~14留は聖墳墓教会内にある |
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聖墳墓教会 |
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第12留 -イエス・キリストの死- |
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第12留 -イエス・キリストの死-
第12留はゴルゴダの丘の左側に設置されており、そこでイエスが息を引き取ったことを物語っている。現在はギリシア正教会の管理下にあり、祭壇の足元には十字架が立てられたとされるくぼみのある場所を厳密に示すために銀製の円形プレートが置かれている。また、イエスと共にふたりの犯罪人が十字架に掛けられたとされる場所(祭壇の両脇)には黒いプレートが置かれている。巡礼者の多くは長時間ここで足を止めるのだが、それはゴルゴタの丘の岩盤が露出しているくぼみの箇所を直に触れることができるからである。この岩盤には、イエスが死んだ際に発生した地震によってできたとされる亀裂が走っている。
-『マタイによる福音書』 27:45~27:54
さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。 そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。
ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。 しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。 そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、
墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から/出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。
百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
キリスト教の伝承では、イエスの血はこの地震によって発生した亀裂を通じて地下に流れ、ゴルゴダの丘に埋葬されたアダムの骨に滴り落ちたとされている。つまり、イエスの血によって、アダムとエバによってもたらされた原罪から人類は清められたというのである。
また、神殿の至聖所と外界を隔てる垂れ幕が裂けたという出来事は、キリスト教徒にとっては神の加護がユダヤ人だけでなく全人類に向けられたことの証と見なされている。それはまた、イエスという至上の生贄を捧げたのを最後に、祭司階級による神事、とりわけ燔祭などに代表される生贄に依存した信仰が終焉したことの象徴とも解釈されている。福音書では物語の序盤、ヨルダン川での洗礼において天からの声によってイエスの神性が宣言されているのだが、物語の終盤、十字架が地に立てられている場面では異教徒であるローマ兵の口からイエスの神性についての告白が見られる。この出来事は、のちにイエスに対する信仰がユダヤ人にではなくローマ兵に代表される異邦人に担わされる先鞭をつけたといえよう。 By-Expedia
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第12留 十字架が立てられていた所 |
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第13留 -十字架の下の母マリア-
第13留には「スターバト・マーテル」と呼ばれるフランシスコ会所有の祭壇が置かれており、イエスの母マリアにささげられている。祭壇の傍らには1778年にリスボンより寄進されたマリア像が置かれている。ここでは十字架から降ろされるイエスの遺体を両手で受け止めたマリアの悲しみに焦点が当てられている。
第13留がフランシスコ会によって正式に認定されたのは他の留に比べて遅かったようで、それ以前は、イエスの遺体が十字架から降ろされた後に「塗油の石」と呼ばれる石の上に横たえられて埋葬処置を施されたという出来事が第13留の主題であった。「塗油の石」は聖墳墓教会に入った正面にあるゴルゴタの丘のふもとに置かれている。 By-Expedia
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第13留 -十字架の下の母マリア- |
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第14留 -イエス・キリストの墓- |
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第14留 -イエス・キリストの墓-
第14留はイエスの墓とされる場所にある。福音書によれば、イエスの遺体はアリマタヤのヨセフという人物が所有する墓地に埋葬されたという。
-『ヨハネによる福音書』 19:38~19:42 「その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。
そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。 彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。
イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった。 その日はユダヤ人の準備の日であり、この墓が近かったので、そこにイエスを納めた。
イエスの墓は現在、ロトンダ(円形建築物)の中央に納められている。石棺自体は切り石を組み合わせて作られた簡素なものなのだが、ビザンチン時代に墓の存在を際立たせるために大理石製のモニュメントが周囲を囲むようになった。ロトンダは1808年に起きた火災により損傷を受けたため、1810年にロシア皇帝アレクサンドル1世の資金提供を受けてギリシア正教会によって修繕されたのだが、その際にロシア皇帝の王冠を模った天蓋が設けられている。
第14留はふたつの部屋に分けられている。ひとつは礼拝施設がある部屋で、もうひとつは石棺が置かれている部屋である。礼拝施設の両脇にはギリシア正教の過越祭にて火を灯すためのふたつの穴が開けられている。また、部屋の中には墓穴の蓋に用いられたとされる円形の石の一部が保管されている。
石棺のある部屋では合計43本のろうそくが昼夜灯されている。43本の内訳はカトリック教会が13本、ギリシア正教会が13本、アルメニア使徒教会が13本、コプト正教会が4本である。石棺には大理石で蓋がされている。この蓋には三つの突起があるのだが、この突起はイエスが死後三日目に復活したという出来事にちなんでいる。 By-Expedia
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第14留 -イエス・キリストの墓-
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第14留 -イエス・キリストの墓-
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イスラエル3日目 最後の街歩き |
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10月28日
エルサレム
最後の日
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10月28日 エルサレムAzzahraHotelで朝食後、テルアビブ空港の出国審査には4時間前空港に着いていた方がいいと聞いていたので18:00に空港シャトルバスを予約する。飛行機は0:30発の深夜便。
チェックアウト時間ぎりぎり12:00までホテルで休み、荷物をまとめフロントに預けてから最後の一日街歩きには出発する、シャトルバスが来る18時までは時間がたっぷりある。
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聖母マリア墳墓教会 |
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最後の街歩きはイエス・キリストが最後の晩餐のあとお祈りを捧げたオリーブ山に登る。
登山道に入ってすぐに聖母マリア墳墓教会。
東方教会教徒らによって、イエス・キリストの母マリアが埋葬された場所であると信仰されている。 |
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オリーブ山の広大な墓地 |
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エルサレム郊外オリーブ山は旧約聖書で、最後の審判の日に神が立ち死者がよみがえる場所とされているため、墓地が作られるようになった。第一次中東戦争でヨルダンに占領され、墓地は破壊された。その後第三次中東戦争でイスラエルが奪還して、再び墓地となっている。 |
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オリーブ山はイエス・キリストが最後のエルサレム滞在中に夜を過ごし弟子たちに説教を行った場所とされ、ルカ福音書では捕えられる前に最後の祈りを捧げた場所とされている。
山道を登りながら、今は平和でのどかな風景だがイエス・キリストがこの山やエルサレムの街をどんな気持ちで歩いたのだろうかと考えると神妙な気持ちになる。
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オリーブ山からエルサレム全景 |
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オリーブ山山頂まではホテルから1時間もかからず登ってくる。
山頂からはエルサレムが一望、この風景もイエス・キリストも見たものと同じなのだろうか。
不思議な気持ちになる。 |
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正面に神殿の丘「岩のドーム」 |
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オリーブ山麓、ゲッセマネの園、「万国民の教会」福音書ではイエス・キリストと弟子たちが最後の晩餐のあと祈りを捧げた場所とされている。 |
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万国民の教会.祭壇前にイエス・キリストが最後に祈った岩 |
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ゲッセマネの園 オリーブの古木 |
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オリーブ山から同じ登山道を下ってライオン門へ。エルサレム最後の最後に、イエス・キリストが十字架を背負って歩いた苦難の道「ヴィアロドロローサ」1留~14留をゆっくり確認しながら辿って歩く。 |
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ヴィアドロローサVia Dolorosa1へ⇒ |
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イエス・キリストと弟子達は最後の晩餐のあと、オリーブ山、万国民の教会で祈りをささげ翌日、このライオン門を入った先の、アントニオ要塞の中でピラト総督に裁かれたとされている。 |
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最後の晩餐が行われた場所ははっきりしないが、西方教会では伝統的にエルサレムのシオンの丘の「ダビデの墓」にある建物の「上の部屋」であるとして保存している。東方教会のコプト正教会では聖マトフェイ修道院で最後の晩餐が行われたとしている。
二つは直線距離で900㍍ほど。どちらが正しいか分からないがいずれにしてもこの辺りであったのだろうか。 |
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2017年⇒ ダ・ヴィンチ『最後の晩餐』(サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会) |
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